認知症について考えていて、人が記憶するってどうなっているんだろうって疑問に思っている。何かを書いているときにふと思い出したりするし、人の顔を覚えることが出来る。料理をしていても前の事をぼ得ているから手順通りに進められる。当たり前のことのようだけどすごい事なんだよね。
高校での生物の授業で脳の仕組みについては学習します。内容は薄れているが何となく覚えている。好きになった分野だった。大学に入っても同じような講義があれば受けていた。記憶力、心理、脳の機能については僕の興味の範囲なのです。
僕の考えている記憶という仕組みを言語化してみます。どこかで聞いたことのあるものかもしれませんし、脳機能的に間違っている点も否めません。一般化されたものではありませんのでご了承ください。
記憶には、「思い出の記憶」「知識の記憶」というような区分けがあるとする。
思い出というのはこれまでの体験したことに結びつく記憶。
知識は勉強として記号のようなモノに結びつく記憶に分けられるとします。
「思い出の記憶」
僕は思い出の記憶は断片的にしか覚えていません。初めの頃の記憶は雪の日に車の上にのせられて写真を撮ってくれたという記憶です。何故か自分を眺めているような記憶があって、実際に写真が残っていたので事実でした。
次は幼稚園のバスに乗っている記憶です、その前後は思い出せません。次に家で味噌汁をこぼして怒られるという記憶です。
このように、ある出来事をポツポツと断続的な記憶があって、それが連続していくことで一連の記憶があるように働いて、記憶の連続性が保たれているようにかんじます。
ずっと続くつり橋のように、記憶の板がどんどん張られていく感じです。新しい記憶は隙間なく詰めていくけど、だんだんと隙間が空いていく。板は古くなっていって崩れていくけど、頑丈な部分は残っていく感じですかね。そういうイメージです。
ある出来事があったときには、その断続性は細かいんですが、時間と共に不要な部分は抜ぬけていって、一番印象的だった出来事だけ残ります。
ただ、幼かった頃になればなるほど、その順番がどんどんと曖昧なのです。どっちがさきだったか、後だったかは記憶の中ではかなりあいまいです。
遠くから記憶の固まりを眺めているような感じになるので、そうなるのかもしれません。
あとは、写真や映像などをつかって、外部に記憶を補完する機能を作ってしまうということです。これも脳の本能のようにもおもいます。記憶しきれないことを、モノというモノに置き換えて、記憶を補完しておく。これも脳が進化してきて人類として獲得した機能かもしれません。
「知識の記憶」
文字を覚えた時、言葉を覚えた時の記憶はありません。知識もいつ頃覚えたかはあまり重要ではないので、思い出との記憶の仕方とはちょっと違うような感じがします。リンゴというモノをいつ覚えたのかは全く記憶にない。思い出が知識として別のところに記憶されている感じがします。